彼岸会法要の法話(一部)をご紹介します。
1、人生は欲でいっぱい!?
人生、次から次へと欲のオンパレードである。
仏教的には、これを縁起的(えんぎてき)といいます。つまり、「これによってこれが生じ、これによってこれ滅す。(ほろぼす)」という連続であります。だから、一つの欲が満たされて、その欲が満足すると、また次の欲というように、きりがありません…
ところが、この欲と満足の向き合っているところに「人生そのもののしくみ」があり、この欲望が止まってしまうと、死そのものとなってしまいます。
たいがい矛盾した話です。しかし、それが現実です。そうすると、この果てしない欲望の渦から逃れる道はないのでしょうか?それは、「この私自身を問題とし、この私自身を問い直す道」以外には答えは見つかりません。その答えとは、仏教です。
2、解決の糸口は?
私の解決する道の糸口は、仏教を通して、この私を問題とするということです。自分自身を問うことによって、自分の原点までさかのぼるって見ると、それは、私の「いのちのふるさと」ということに気付かされます。ところが現代は、この「いのちのふるさと」を見失っている時代であります。また、現代は、過密と過疎の時代だともいえます。つまり、都会は過密で農山村は過疎となってきております。それは一体なぜなんでしょうか?
3、最も恐ろしい欲望の渦とは?
確かに政治的にも、一極集中になり過ぎている傾向は多いにありますが、最も恐ろしいのは、私たちの必要以上の欲望の追求にあります。
それは、拝金主義と化した欲望の渦の中で、朝から晩まで必死になっています。しかも、金を求めて都会へ都会へとやってくる。当然のごとく、農山村は、ガラガラ状態になり急速に過疎化が進んでしまっています。自分のことが分からなければ、隣の国を見ればよく分かるのではないかと思います。
金、金、金にものを言わせて爆買に明け暮れています。しかし、よくよく見れば、何もお隣の国だけでなく、この日本も同じです。いや、この私もまた同じです。そして、その結果、イライラ生活を繰り返し「こころのふるさと」不在の生活に陥り、怒り、腹立ち、妬み、嫉みの心を引きずり、がんじがらめになってしまい「やすらぎの場所」も「やすらぎの心」もなくなっています。では、一体どうすればよいのでしょうか?
4、「ふるさと」に込められている意味とは?
そこで考えてみると「ふるさと」とは、別名「郷土(きょうど)」とも言います。
郷土の郷は「幺阝」⇒ 向かい合って会食をしている様子(みんなが寄り集まっている)を表しています。
それから、「土」⇒「つち」です。つまり、一粒の種をいくら机の上に置いても、いつまで待っても芽は出てくることはありません。
しかし、この一粒の種を土に蒔いてやると、美しい「いのち」が芽を出します。これは、「つち」によって「いのち」が恵まれたということです。また、その考え方が「お骨」を「つち」に蒔くつまり「つち」に帰すと言う表現をさし「つち」によって「育ち」そしてまた「新しい生命」となるという場所がまさしく「土」なのでしょう。
そういった考え方を発展させていき、その場所に「やすらぎ」を感じつつ、しかも「心の落ち着きを取り戻す場所」それが「ふるさと」であります。ところが、最近すっかりその「やすらぎの場所」も「やすらぎの心も」なくなってきています。では、一体どうすればよいのでしょうか?
ここまで思いをめぐらしてみると「この私自身」の際限(さいげん)のない「欲」にまみれた人生では、どこにも「やすらぎの場所」を見出すことは、不可能に近いことに気付かされます。そこで大事なことは、どんな物でも「最上なもの」として受け取っていける仏教の教えを頂くことが最も重要なことだと思います。
5、仏教でいわれている「浄土」とは?
私たちの最大のあやまちは、「最上の物を最下の物」として受け取るところに人間としての迷いと愚痴が発生するのです。そこで、今一度よくよく見なければならないことは、仏教でいわれている『浄土』とは、あらゆるものが「最上のもの」として受け取れる世界ということです。
だから、そういう場所で手を合わして憶念(おくねん ※思い続けること)が大切なのです。しかし、現代は、物を粗末にし、使い捨てが当たり前となっています。
そこで確実に言えることは、このままの状態を続けていると、必ず資源は枯渇(こかつ)してしまうということです。そこに異常なスピードで。拍車をかけているのが避けることの出来ない経済のグローバル化です。
例えば、マグロの乱獲です。世界中がマグロを食べ出したため、急速に不足してきています。また、蟹も然りです。お金にものをいわせ、香港から築地までマグロを買い付けにきているそうです。
経済的に豊かになるのは結構なことですが、世界中の人が一斉にマグロを食べ出したのですから、そりゃ急速に減って行って当たり前です。では、どうすればよいのでしょうか?
6、「物を粗末にする心」の原因とは?
今こそ、物を大事にすることを徹底しなければいけないと思います。物を粗末にする心が当たり前のごとく、人間を粗末に扱い、何でも捨てる時代だといって、物を捨てる心が親を捨て、子供を捨てる心になって来る・・・
非常に恐ろしいことです。例えば、この間も三才の子供が二十歳そこそこの男を見たからと言って、「こいつ俺にガン付けた」といって殺しています。
どうですか?考えられない事件です。一体これから先どうなって行くのでしょうか。
しかし、これらのことをよく観察しておりますと明らかに共通の原因があります。それは、自分のことだけしか考えない自己中心の地獄の日々を送っているということです。だから、「すべてのものが最上の物」として受け取れる『お浄土の世界』(仏教的物の見方)を思い続けるということに気付かずに荒(すさ)んだ生活を送っているのでしょう。
※仏さまのおられる場所は、あらゆるものを最上のものとして受け取られる場所であります。
※私の場所は常に自己中心にものを見しかも足りても不足をいって受け取る場所におります。
そんな私がお念仏を頂くことにより、自分自身の愚かさに気付かさしていただける世界が『お念仏に生かされる』世界だと思います。
この記事を書いた人
【ぶつぶつ雑記編集部】 住職
一緒に考え、対話することを大事にしています。
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